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腱鞘炎とサマリアの女 [音楽日記]

風邪が治ってから、まあまあの調子を取り戻し、
何とか3つの本番ができるかなぁ、と思っていたら、
18日の練習の後、左手首が腱鞘炎になってしまいました。

500人の合唱団(大人も子供も入れて)の大きな声に負けないように、
特にベースラインをしっかりと弾くようにしていたら、
モロに左手に来てしまったのです。

その日は、お風呂で手を温めて、チタンテープをベタベタ貼って寝ました。
昨日19日の本番は、少し痛いものの、演奏には支障なく弾けました。

今日はちょっとゆっくりと身体と手を休めています。
やっぱり左手首が痛いです。
でも、22日がまた本番なので、その練習も1時間半ぐらいはしました。
神様が何とか弾かせて下さることを祈りながら、準備しようと思います。

ここのところの本番続きで、私が心に留めていることは、
私の信仰のおじいちゃん、と心に決めた、安部哲さんの言葉、
「神様の小使い」であれ、ということです。

音楽で舞台に立つと、
やっぱり一番目立つソリストとか、指揮者とか、
先生と呼ばれる立場の人が、尊重されて目立ったりする訳ですけれど、
そんなことは、神様の目から見たら、どうでも良いことであって、
どちらかというと、神様は目立つ人ではなくて、
影でただ支える人に目を注がれるのです。

何か目覚ましい業績を上げたり、人から注目されたり、
ということが、本質的に嫌い、という人は多分あまりいなくて、
(人前に出るのが苦手、というようなことはあっても)
やっぱり褒められればうれしいし、
けなされたり、無視されたりしたら、寂しい。

でも、イエス様を信じる者が、何かをしようとするならば、
褒められる、けなされる、注目される、無視される、
ということを超えて、神様のためにすべてを行うべきなのだと思います。

そういう意味で、私が本番でピアノを弾く、ということは、
私が誰かに褒められるためではなくて、
そこに集まった人が、
神様が私達に下さった、音楽の恵みを体験するため、
そこから何か、癒しだったり、心の平安だったり、
そういうものを感じるため、
そして、その奥に、神様を感じるため、
でなければならないのだと思います。

聖書の中で、サマリアの女がイエス様のことをみんなに
「この人が救い主ではないか?」と伝えた時、
その結果みんながイエス様に会いに来て、信じることができたけれど、
誰もサマリアの女に感謝なんかしなかった。
むしろ、「あんたのお陰じゃない。」みたいなことを
言われてしまっているのだけれど、
でも神様は、きっと、そういう風に福音を伝えるということを
望んでおられるのだと思います。

そうそう、「バベットの晩餐会」という映画を見たことがあって、
そこに出てくる、バベットという女性シェフが、
村人を招いて渾身のディナーを作るのですけれど、
彼女の仕事も、そういう感じだったのを思い出します。
当時クリスチャンじゃなかった私には、
このバベットの満足感が、よくわからない部分もあったのですが、
彼女が何か、至高のものを感じていることだけはわかりました。

あの映画も、もう一度見てみたいな。
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