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「ゆる聖研」続けています。 [でもクリ日記]

昨年からダンナさんと二人で「ゆる聖研」をやるようになって、
聖書を以前より突っ込んで、深く学べる機会ができました。
(YoutubeとZoomで月に2回実施中、詳しくはYoutubeで「ゆる聖研」で検索っ!)

教会で牧師先生から色々と教わることはとても大切。

聖書は正しい知識を得ないと、読み解けない言葉がたくさんあるし、
自分に都合良く勝手な解釈をしてしまうと、
神様から離れてしまうこともあるから・・・

一方、教わるということは、いつも受け身ということでもあります。

最初のうちはもちろん、もっぱら受け身で良いと思うのですが、
ある程度知識や経験を得たら、今度は自分で聖書と取っ組み合ってみると、
受け身だった時とは違う、面白い地平が開けて行くのだなぁ・・・
ということを最近感じています。

私が「ゆる聖研」でやっていること(豆知識コーナー担当)は、
子供の夏休みの自由研究みたいなことかもしれません。

教えてくれる人がいない分、自分の視点を大事にして、
聖霊の導きだけを頼りに読んで行き、
気になったところを突っ込んで調べてみたり、思い巡らせてみたりするのです。

すると、以前は聞き流していた言葉の深〜い背景が分かったり、
ある箇所が全く別の箇所とつながって理解ができたり・・・
聖書って、改めて面白いんだなぁ・・・と感じます。

そうして自分の手で掘り当ててつかんだことは、
誰かに教わった以上に、自分の血肉になって行くような気がします。

でも、「ゆる聖研」のためにそうやって調べていると時々、
目に見える言葉を調べることに夢中になってしまって、
その後ろにある、生きた神様の息遣いが聞こえなくなってしまう時があります。

頭でっかちになってしまうというか・・・

そんな時に、私を生きた神様のもとに戻してくれるのが、
「ゆる聖研」に参加して下さる方々です。

聖書から読み取ったことや感じたことを言って下さったその言葉から、
「あぁ、神様って、そういう方だった!」と
目が開かれることが多々あります。

複数の人が集まって聖書を学び、祈る時には、
どんな小さな場であっても「教会」(霊的な意味での)が生まれ、
特別な聖霊の働きがある、ということなのだろうなぁ、と思います。

という訳で、
「ゆる聖研」は、クリスチャンの方でも、そうでない方でも、
全く初めての方でも大歓迎、
これからもゆる〜く続けて参ります。

あ・・・でも、こうやって学べば学ぶほど、
調べれば調べるほど、私って何も知らないんだなぁ、
ということがわかります。
ちゃんと総合的に聖書を学んでとらえて私達に教えてくれる
牧師や宣教師の先生方ってすごいんだなぁ、と改めて思うこの頃でもあります。
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心のリハビリ中(ひとりごと) [でもクリ日記]

私はこれまで、色々なことを「頑張って」やって来た。
しかも、一つ一つの言動が正しいのかどうかを、いつも誰かに確かめて、
誰かに正しいと言ってもらえないと一歩も前に進めない、
そんな感じで歩いて来た。

でも、二十数年前にクリスチャンになって、
少しずつ少しずつ、頑張らないで生きることを教わって、
頑張らない練習をしていたら、出来ないことが増えて来た。

頑張らない私は、何も出来ない私になって行った。

こんな生き方で良いのか?
イエス様は十字架に架かられたほどの代償を払われたのに、
私はただ、頑張らない自分という場所から動かなくて良いのか?

世の中は矛盾と悲惨に満ちており、
助けなくてはならない人は、たくさんいるのに・・・

そういう考えが、まだ私の心の中にある・・・

けど・・・今やっと少しずつわかって来たんだ。

私があちらこちらに気遣って、必死に頑張って来たことは、
実は本質的には私にとって、喜びではなかった。

もちろん喜びが全くなかった訳ではなかったけれど、
それは主にある喜びではなかった。

つまり私にとって、私が頑張って得た全ては、
祝福ではなく、
呪いだったことに、気づいてしまったのだ。

だから、私はそういう生き方で張り巡らせた
自分の枝を全部、剪定することにしたのだ。

切り株だけになってしまった私。

こんな年齢になって、
もう私から新しい芽なんか出ないかもしれない、
という恐怖はある。

でも私は、まだ死んではいない。

何もなくなった切り株から、
今からでも主にある美しい芽が出ることを、
ただ待ち望もう。

もう、私の手で嘘の芽を無理やりに出すことをやめよう。

大した実は結べないかもしれない。
私にはもうあまり、時間も体力もないから。

それでも私はこれからの時間を

主とともに生きる。
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自分には案外大事なことかもしれないのでメモ [でもクリ日記]

この記事は読む方によって、不快に思われる方があるかもしれません。
「毒親」というキーワードでも大丈夫、と思われる方はどうぞ。

ちなみに、ここに書いている「親」は、現在介護日記を書いている義母ではなく、
私の実の両親のことです。

*******************

続きはこちら


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ゆる聖研はじめました。 [でもクリ日記]

この春の自粛期間、教会の礼拝をはじめ、色々な集会が中止になり、
なかなか人と会うことも難しい日々が続きました。
(今も続いているけど)
多くの教会が、礼拝のライブ礼拝を実施して下さって、
身体の弱い私は春以来、大いに活用させて頂いています。

最近は、色々な教会の礼拝をYoutubeで拝見して、
霊的にはむしろ新しいことを学んで豊かになっているかも?
と思う瞬間もあるぐらいです。

もともと老眼になって、根気もなくて、
聖書を読むのが辛くなっていた私は、
毎日のようにYoutubeで公開されている、色々なメッセージを聴いて、
霊の糧を頂いています。

また、テレワークのためのアプリ、
Zoomが誰でも手軽に使えるようになって来て、
リモートではありますが、普段会えない人々と会えるようになって来ました。

それで、私達夫婦も、一つはじめてしまいました。
それは、

「ゆる聖研」!

Zoomでつながって、みんなでゆる〜い聖書研究をしたら
おもしろいのではないか?と思って、はじめてみました。

最初はテストで、ダンナさんと二人だけでYoutubeの動画を撮影し、
次に友人や知人に声をかけて、実際にZoomで繋いでみたところ、
それなりに楽しい時間が過ごせることがわかりました。

という訳で、今のところ不定期ですが、
(ゆる聖研は、すべてゆるい。だから予定もゆるいのです。)
月に何回かずつやっております。

ご興味のある方は、
Youtube動画をご覧下さいませ。

ゆる聖研 ←クリック
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どう生きるべきか [でもクリ日記]

昨年うちにいらした、パリ在住の画家のWさんが、
「日本のテレビを見ていると、
何か不安を煽るようなことばかり言っているように思う。」
とおっしゃっていました。

その時は、なんとなくわかるような、
でも、あまりにも毎日の日常生活にテレビがあるので、
実のところは自分で見えていないような気がしました。

でも、Wさんがおっしゃった言葉が割と心の中にとどまって、
最近テレビを見る時に、その「不安」について考えています。

その「不安」に色々と気づくのですけれど、
(政治的なこと、世界情勢などはもちろん)
私自身に今直結している、卑近な問題の一つに、
健康問題があります。

最近日本のテレビで流行っている傾向として、
健康寿命を延ばし、高齢になっても元気に過ごす、
というのがあります。
(政府がそういう方針を打ち出している訳です。)

だから、こういう運動しましょう、とか、
こういう栄養素を摂ると良いでしょう、とか、
お酒や脂肪分はほどほどに、とか、
そういったことが毎日のように色々な方向から言われて、
専門の先生方が言うのだから、それなりに気をつけよう、
とか思う訳ですけれど、
翌日には、別の先生が真反対のことを言ったりもする・・・
なんだか、専門の先生方の権威の言葉によって、
私たちの生き方が右往左往している感じ・・・

でも果たしてそういう先生方のおっしゃる説に従って、
健康に注意を払いながら生きることが、
本当に、すべての人にとって、
最善の生き方ということなのか?

例えば、お酒をガバガバ飲んで、
肝臓を壊して、早死にした、という人が居たとしましょう。

テレビが言う、「健康的な生き方」とは全く違います。

でも、その人が、誰かと一緒にお酒を飲みながら、
楽しい時間を過ごし、その楽しい時間が、
一緒に過ごす仲間の心を癒したり、
誰かの心の救いになっていたりした、とか、
お酒を飲んでストレス発散することによって、
その人ならではのすばらしい仕事を成し遂げた、
ということがあった場合、

その人にお酒をやめさせ、
「健康寿命」を延ばし、長生きさせることが、
果たしてその人にとっての最善の一生なのか?
ということなのです。

もちろん、テレビの言うことなんか、気にしないさ、
と言って生きれば良いのだけど、
そんな番組ばかり繰り返しやっているので、
だんだん洗脳されて来たり、
そうできない自分が、ダメな人間なんじゃないか、
と思えて来たりすることもあります。

でも、イエス様は、
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、
また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」
とおっしゃいました。

そう、食べる物や着る物は、
神様から与えられるのであって、
自分の身体を大事にするのは良いことだとしても、
それ以上に何か思い悩む必要はないし、
そういうことに右往左往する生き方は、
神様を大切にする生き方ではないのだと思います。

(そういえば、着る物についても、テレビでよく、
ファッションチェック、とかやっていたり、
今年は、◯◯が流行っています、とか言っているのですが、
こちらは私は割と強気で、
「うるせえや。私は好きなものを着るんだ!」
と思っています。)

私の信仰のおじいちゃん(と勝手に思っている)、
安部哲さんは、
どんなに医者や周りにダメと言われても、
タバコをやめず、すごいヘビースモーカーだったそうです。
でも、それで世界の果てまで、
すごいエネルギーで福音を伝えて歩きました。

神様がダメと言われるもの以外ならば、
私達は何をやっても、良いのだと思います。
それ以外の何かから、ダメ、と言われても、
基本的にうろたえる必要はないのだと思います。

神様を畏れ、神様以外のものは恐れない、
という強い信仰を持ちたいなぁ、と思います。
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クリスマスイブ [でもクリ日記]

今年のクリスマスも、24日の夜は、
教会の燭火礼拝でオルガンを弾いていました。

今年のクリスマスは、世界中でも、あまり「盛り上がる」、
という感じではなかったように思います。
先日テロ事件のあった、パリでは、
厳戒態勢の中ミサが行われたようでした。

(私も、オルガンを弾きながら、私も頭のスミで、
ここにテロリストが入って来て撃たれる、
ということもありうるのだなぁ、
あるいは、将来は日本の教会も襲撃されることが
あるのかもしれないなぁ、と思いました。)

うちの教会に来るお客様も、
いつもよりも少なめだったような気がします。

でも、そんな世界情勢だからこそ、
平和を求めてクリスチャンが深く祈るクリスマスに
なったようにも思います。

私の教会でも、今年の燭火礼拝では、
聖フランシスコの平和の祈りをみんなで唱えて祈る
時が持たれました。

でも、今の世界情勢の原因の一つには、
キリスト教の国がイスラム教徒を迫害し、
搾取して来た歴史があることを思うと、
(日本も加担しているのだけど)
私たちが何を本当に見るべきなのか、
何を悔い改めるべきなのか、何を願うべきなのか、
それを見誤らないように、
よく目を覚ましていないといけないと思います。

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想像力 [でもクリ日記]

想像力を働かせることの大切さを、最近つくづく感じています。

私はクリスチャンなのですけれど、ここ十年以上、
かつては驚きと発見に満ちていた聖書を読むことが、
何となくマンネリ化していて、
表面的なことしか読めなくなっていました。

その理由として、一つには、
更年期に入って、活字を読むこと自体が、しんどくなってしまった、
ということもあったと思うのですが、
聖書を読むのが面倒になって、
礼拝の時ぐらいしか聖書を読まなくなっていたし、
やっと読むことがあっても、表面的なことしか入って来ない、
というような日々が続きました。

仕方がないので、聖書の言葉について、深く解説してある本を読んだり、
活字を読むのも嫌な日は、
説教の音声や動画を見たり聴いたりするだけ、という日も。

不信仰、というよりも、心身の問題が大きくて、
身体も動かなかったし、頭の働きも深く考えることを拒否していた、
ということだったように思います。

でも先日、画家のWさんがいらっしゃって、
家で「トドの会」(聖書の言葉を聴いてから、
みんなで一緒にご飯やお菓子を食べて、
心も身体も元気になろうという会)がありました。

Wさんはパリ在住の画家で、
私に初めて、聖書の言葉を教えて下さった人です。
一年に一回ぐらいは来日して日本でも個展をなさり、
いつもはパリで毎月一回開いている「トドの会」
を、日本各地で開いて下さいます。

Wさんの語られる聖書の世界には、
たくさんのWさんの想像力が働いていて、
聖書の中の出来事が、遠い世界の昔の出来事ではなくて、
すぐ隣で起きていること、と思うような、
リアリティにあふれていました。

聖書は、時代背景を調べたり、言葉の意味を調べたり、
という、学術的なアプローチも大切なのかもしれませんが、
同時に、今も昔も変わらない生身の人間として、
そこに出て来る人々が、何を見て、何を食べ、
何を聞いて、どんな匂いをかいで、
何を感じていたのか・・・といったことを、
我が身に置き換えて、色々と想像してみることも
大切なのだなぁ、と思いました。

そして、そう思いながら聖書を読んでみると、
色々な言葉にひっかかり、
「なんでだろう?」
「何を暗示しているんだろう?」
と考えるようになって来ました。

そして、言葉の意味を深く考えるために、
色々と調べながら読むようになりました。

・・・と、このように考えられるようになったのも、
少し体調が上がって来た証拠で、
信仰が強くなった、という訳ではないですけれど、

ここに来て、
一つ新しく気づくことができて良かったと思います。

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国会前に行って来ました。 [でもクリ日記]

昨晩は、国会議事堂前で、
平和と民主主義を求めて、今の政府に抗議する集会に、
友人と二人で行って来ました。

今年の9月19日に安保法が成立してしまいましたが、
毎月19日に集まって、あきらめずに声を上げ続け、
次の選挙で国を変えて行こう、という趣旨です。

私は、今の日本が向かって行く方向が怖いです。
日本にとどまらず、世界が向かって行く方向が怖いです。

国と国が、民族と民族が、お互いに恐怖と憎しみにかられ、
自分達を保身しよう、相手を打ち負かそう、
ということに躍起になっています。

でも、お互いにそのようにやって行った末に、
破滅しかないことは、
過去の歴史を見ても、自分の身の周りを見ても、明らかなことです。

それでも、人は弱い。

一人一人が自立して、自分の頭で考えようとする人が多く、
周りの雰囲気に流されにくいフランス人でさえ、
先日のパリのテロの後、
81%の人が、シリア空爆に賛成するようになったそうです。

それだけ、自分の街が、自分の家族や友人が、
目の前で破壊され、殺されるということには、
人を揺り動かしてしまうインパクトがあるのだと思います。

だから、まだ今そうではない日本人は、
今日本がどこに向かって行こうとしているのか、
よく考えて、できることをしなければならないのだと思います。

そして、安保法が成立し、
アメリカの軍事行動に日本が参加する可能性が出て来た今、

私は、自分達の街がテロに攻撃され、家族や友人が死に、
自分の生活が破壊されても、
自分が殺されることがあっても、
憎しみに憎しみで応じない、という覚悟をしたいと思います。

本当にそうなった時に、自分が咄嗟に
どんな反応を示すかわからないけど、
できるだけ早く、そのことを思い出し、自分を取り戻したい。
そういう場になっても、いえ、そういう場でこそ、
私は神様の愛と繋がっていたいのです。

また、私たちが守りたい、憲法9条って、
私たち日本人の一人一人が、憎しみに憎しみで応じない、
命がけの覚悟を持つ、ということなのではないか、
と、私は思っているのです。

それから、遅まきながら私も、
イスラム教のことを勉強しておきたいし、
(ただ今イスラム教の初心者向け解説書を読んでいるところです)
近くに居るイスラム教の人と仲良くなっておきたい、
とも思っています。

私たちが恐怖にかられて、
普通に平和を願っているイスラム教徒の人々を迫害することは、
イスラム教徒を日本社会のスケープゴートにすることで、
(今のところ、在日の中国、朝鮮、韓国の人々が
そういう対象になっていて、恥ずかしいことだと思っています。)
日本人はそれで少しだけ溜飲を下げる人もいるかもしれないけれど、
それはもっと根深い恐怖と憎しみを生み、
良心的なイスラム教徒の人々を追いやって、
最悪の場合、そこからテロリストを生むことにもなります。

だから、という訳ではないのだけれど、
どんどん憎しみと敵対がエスカレートして行く、
世界の政治のトップに対抗する、庶民の手段は、
そんなことしかないのではないか、
たとえ大海の一滴であっても、
自分が今日、そのように生きることが大切なのではないか、
と思います。
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がんばってない [でもクリ日記]

最近の私は、がんばっている感じがしません。
以前から見ると、かなりだらだらしている感じがします。

以前は、これではいけない!と、
色々と予定を入れてみたり、
苦手な家事をがんばってみたり、
それでもまだがんばりが足りない!と思ったりしていたのですけれど、
近年はすっかりそういうことをしなくなりました。

なぜなら、がんばるとすぐ、体調が悪くなって
寝込む日々が続いたから。

最近は、少しだけ体調が上向いて来たのです。
色々と動いた後でも、少し横になったり、
最悪でも一日休めば、それなりに疲れが取れるようになりました。

でも、それでも私は、あんまりがんばらなくなってしまったの。

がんばらないことに対して、
以前の私にはものすごく罪悪感がありました。

でも、今は罪悪感が随分と薄くなりました。
どうしてだろう?ただ図々しくなっただけ?
あと、毎日の色々なことが、あまり「苦々しいもの」
ではなくなりました。
(以前は毎日がとても苦々しかったの。)

おまけに、こんな私なのに、ダンナさんはほとんど毎日のように私に、
「よくがんばりましたね。」と言ってくれます。
本当に天使のようなダンナさんです。
でも、私は本当に、がんばっている感覚がありません。

そうそう、私の周りで、
子育てとお仕事を両方がんばっている◯◯さんは、
私なんかよりずっとずっとがんばっているし、
介護だって最近は、私はがんばらないで、
ヘルパーさん達に色々丸投げして、ラクしているなぁ、と思います。
そう考えると、私が日々できることって、何て少ないんだろう、
と思います。

私は本当に弱くて小さい人間なのだなぁ、と思います。

でも、弱くて小さい人間だから、
毎日泣いて過ごさなければならない、という訳ではなくて、
それでも毎日、できるだけ笑顔で暮らしている方が、
神様の御心にかなっているのだろうと思います。

そして、小さいながらも、
神様に使って頂ける瞬間はあって、
人に喜ばれたり、助けたりすることもあって、
あぁ、今日はがんばれて良かったなぁ、と思うこともあります。

とりあえずそれでいいのかな、と思うこの頃です。

なんかまとまってない文だけど・・・まぁいいか。
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病んだ牧師さんとの距離感 [でもクリ日記]

先日書いた、病んだ牧師さんのうちのお一人と
再会することがあり、
先生の方から、私を傷つけたことを謝って下さいました。
それで、一応和解、ということになりました。

良かったです。
今後は、また普通におつきあいができると思います。

ただやはり、先生と二人きりでお話すること、
お電話することは、今後もやめておこうと思います。

先生が、自分がイライラした時には、
親しい人には何を言っても良いんだ、
という生き方を変えない限りは、また同じことが起こって、
双方が無駄にダメージを被ることになるからです。

そういう距離感でつきあえば、後は素晴らしい方なので、
きっとうまく行くと思います。
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